第一幕 見えない美しさ



序章:静寂の街と不穏な劇場

夜の街を吹き抜ける風の中に、どこからともなく聞こえるため息のような風の音が、人々の不安を覆い隠すように漂っている。寂しげなネオンのかすかな光が、かえって人々の不安を浮き上がらせるかのようだった。道行く人の足取りは重く、どこか孤独を抱えている。そんな薄暗い街の片隅に、異界への門のような古い劇場が佇んでいる。優美な装飾は過去の栄華を伝えるが、その内奥に何かを秘めているかのように息づいていた。

それは、いまから何世代も昔のこと。

当時この街は「北方交易路」の要衝として栄えていたが、同時に周辺の国々との争いや寒冷化などの厳しい時代を迎えていたという。ある晩、今にも凍りつきそうな冬の空に大きな隕石が流れ、一筋の光跡とともに街外れの荒地へ落ちた。その衝撃で生じたクレーターの中心には、不思議な“深紅の炎に星の欠片”のような結晶が輝いていたと伝わっている。当初、人々は恐れおののき、その地を「封じられた場所」と呼んで近寄らなかった。だが、ひとりの旅の劇作家がそこに立ち寄り、結晶から立ち上る小さな光り輝く粒を目にした。その光は氷のように冷たい空気を和らげ、彼の疲れた心を溶かすように包み込んだという。

「これは“神秘の力”だ。わたしはここに舞台を作ろう。人々が心を休め、希望を見いだす場所を。」

そう言い残した劇作家は、仲間たちの協力を得てクレーターの上に木製の簡素な舞台を造り、そこで小さな芝居や踊りを披露し始めた。最初は好奇の目で集まった観客も、舞台から溢れ出す“星の欠片”の力に導かれるかのように、次第に心を癒されていった。戦によって傷ついた者や失意の底にいた者が、舞台上の偉大な踊りや心に響く物語を通じて新しい一歩を踏み出す姿を見て、街の人々はこの舞台を“復活の場所”と呼ぶようになった。

やがて、劇作家の後継者たちはこの舞台に立派な屋根や客席を加え、しだいにそれは壮麗な劇場へと姿を変えていった。しかし、劇場の礎に眠る“赤い炎のような星の欠片”は何らかの意思を持つかのように時折脈打ち、ときには淡い光を放ちながら人々の感情に寄り添っているかのようだった。伝承によると、この劇場には太古の時代から「火の鳥」をはじめとする強大な精霊を封じ込める力が宿っているらしい。砂漠を越えた東方のまだ眠ってる秘密のある遺跡から発見された古文書の一節には、こうある。“星の結晶は異世界の入り口。舞台に立つ者が真に祈り、心を解き放つとき、門は開かれ、火の鳥の加護と共鳴する。”

一方で「五龍」の力が暴走すれば、この劇場を通じて“世界を滅ぼしうる”ほどの災厄が解き放たれる──そんな警告めいた言葉も記されていたという。つまりこの劇場は“人々を癒し、希望を生む”場所であると同時に、“異世界の門”としての危うさも秘めている存在だったのだ。劇場の歴代支配人や踊り子たちは、そのことを心得て舞台を運営してきた。常に「この劇場が、人々の祈りや思いを束ねる聖域としてあり続けるように」という願いを胸に抱きながら、舞台の上で物語と踊りを紡ぎ、災厄を封印し続けてきたのである。

ところが、時代が下るにつれ人々の信仰や舞台芸術への関心が薄れていくと、劇場の光も少しずつ弱まっていった。歴代支配人の努力や公演の数々では補いきれないほど、世界の荒廃や人々の心の疲弊が進んでいたのだ。そして現代、北国からやって来た踊り子・艶(えん)たちが、この劇場に新たな息吹をもたらしつつある。荒れ果てた世界と、忘れられようとしている“星の欠片”の力。はたして劇場は再び光を取り戻し、異世界への門としてその役目を果たすのか、それとも闇に飲み込まれ、“封印されし災厄”を解き放ってしまうのか──。そんな不穏と希望が同居する物語の舞台として、この劇場は“唯一無二の存在理由”を持ち続けているのである。
かつて、この劇場では“星の欠片”が守り続けられてきた。古い記録によれば、その星の欠片は「強き想いを持つ者に呼応し、時が来ればその光は再び劇場へと還り、火の鳥の炎を導く」と記されている。いま、北国からやって来た踊り子・**艶(えん)**の内には、“深紅の炎”が宿ると噂されていた。実際、艶がステージに立つとき、その踊りは言葉では言い表せないほど強烈な熱量を帯び、観る者の心に赤々と燃える情熱を灯すのだ。
そして、その炎のような情熱こそが、火の鳥の力に通じるものだと古文書の一節は示唆している。一方、劇場では奇妙な噂が絶えなかった。公演の夜ごとに“謎の男”が現れ、誰とも言葉を交わさずに艶の踊りをじっと見つめているのだという。彼が誰なのか、“星の欠片”を手にしているのか─。
しかし、劇場の礎に眠る結晶は彼が客席に姿を見せるたびに、かすかに光を増しているようにも見えた。もしあの男が“星の欠片”を手に、深紅の炎を宿す踊り子と出会えば、この劇場に封印された力が大きく動くかもしれない……それが救いなのか破滅なのか、今は誰にも分からない。
ともあれ、荒廃する世界の中で微かに灯る希望の光は、艶の踊りと、彼の瞳の中の星の欠片とともに、この劇場へ戻って来つつあるのかもしれない。


艶がこれほどまでに踊りに惹かれるには
ふと、艶(えん)は幼い頃のことを思い出す。
か昔、雪と氷に閉ざされ街外れの荒地に隕石が落ちたと語り継がれていた──その影響なのか、この地の寒冷化は一気に進み、人々はまるで氷の牢獄で暮らすような日々を強いられた。
それでも艶(えん)は雪原に出て足を動かし、凍える手を擦り合わせながら見よう見まねで踊ってみたとき、不思議な感覚に包まれた。まるで身体がポッポッと火のように温かくなり、周りの冷たさが消えていくように思えたのだ。その瞬間こそが、“踊り”は人の心に灯る炎かもしれないと心安まる感覚を感じていた。そして艶の母も、そんな厳しい現実の中でもいつもかじかみながら微笑んでいた。

「いつかあなたが踊る姿を見たい。踊りには、人を照らす炎のような力があるんだってね……」

母の声は、真冬の夜に灯るか細いランプのように、幼い艶の心を温めてくれた。人々の表情も次第に沈み、母は病に伏せがちになり、艶自身も踊る機会を失って重くのしかかる孤独と闘う日々が続いた。それでも母の言葉を信じたかった彼女は、ある日、かすかな希望を探すためにひとり雪原へ足を踏み出す。
「南方へ行けば、暖か土地があるかもしれない」──その噂だけを頼りに、最小限の荷物を抱え、凍てつく地面を踏みしめた。しかし、見渡す限りの白い世界はすぐに艶の視界を奪い、風雪が肌を容赦なく刺し続ける。つま先の感覚が失われ、息をするたび肺が凍るような痛みに襲われた。

「……もう、ここで終わりなの?」

そう呟いた瞬間、雪に足をとられ、身体が崩れ落ちる。瞼を閉じかけたそのとき、遠くに“紅い光”が揺らめいた。目を凝らすと、火のように鮮やかな光を纏う小さな存在──まるで人間の形をした“炎の妖精”が宙を舞っていた。吹雪の轟音が嘘のように静まり、妖精が手を伸ばすと不思議な情熱が艶の指先から全身へ広がっていく妖精は艶を見つめると、小さく頷きながら炎の光をさらに強める。

「生きたいなら、あなたの“踊り”を見せて。
 あなたが心に灯す炎を、わたしに教えて──」

幻聴にも思えるその声に、艶は反射的に身体を動かした。凍えきった足を無理やり雪から引き抜き、幼い頃から誰にも褒められずとも踊り続けたときの感覚を呼び起こす。足元の雪がきしむ音に合わせて腰をひねり、両腕を振り上げると、胸の奥に眠っていた情熱がじわりと湧き上がってくるのを感じた。まるで、そこだけが春のように温かい。すると、妖精の炎が一段と強くなり、“紅蓮の炎”が渦を巻くように吹雪を切り裂いていく。息苦しさや寒さが遠のき、艶の鼓動が確かに力を取り戻してゆく。

「そうだ、わたしは……まだ踊れる……!」

最後の一歩を踏み出したとき、妖精はにっこりと微笑み、夜空に溶けるように消えていった。まるで「また会おうね」と言っているかのように。遠くの吹雪が一瞬静まり、わずかに街へ続く道が見え始める。たとえ世界が凍てつこうとも、「踊りは、人の心に灯る炎……」幼いころ母がくれた言葉と、今しがた体験した奇跡とが、ひとつになって胸を満たす。とにかく戻らなくては、と足を進める艶の中には、“紅蓮の炎”のような熱い鼓動が宿りはじめていた。
やがて時が流れ、大人になった艶は再び街へ戻り、荒廃するこの世界のなかで舞台に立つ。彼女のステージにだけは、ほんの少しだけ春を思わせる温もりが宿る──そんな噂がしだいに広まっていった。それでも時おり、彼女は思い悩む。

「こんなに世界が荒んでいるのに、わたしの踊りは本当に誰かの力になるのだろうか……?」

そう自問しながらも、艶は一歩を踏み出す。
霧のような寒気の中でも、胸の奥で“紅蓮の炎”が揺らめき続けているかぎり、踊りをやめるつもりはなかった。それでも時おり、艶は思い悩む。「こんなに世界が荒んでいるのに、わたしの踊りは本当に誰かの力になるのだろうか……?」
そう自問しながらも、艶はまた一歩を踏み出す。
霧のような寒気の中でも、胸の奥で“紅蓮の炎”が揺らめき続けているかぎり、踊りをやめるつもりはなかった。


男の眼差し
そして迎えたある公演の夜。
いつものように舞台袖で深呼吸をし、灯りの落ちた客席を一瞥してから、艶(えん)はステージに立つ。
色とりどりの照明がスポットライトとなり、煌めく衣装と彼女の踊りを追う。紅蓮の炎を宿すような情熱が、しなやかな手足の動きから観客へと放たれていく――それが今の彼女にできる“世界への祈り”のかたちだ。

ところが、その夜の客席の後方には、深い闇を抱えているかのように身動きもせず、どこか心ここにあらずでステージを見つめている男がいた。
艶は踊りに没頭しながらも、その男の“悲しげな眼差し”に不思議と胸を締めつけられる。
まるで、彼の瞳には罪悪感と焦燥の闇、そして消えきらないかすかな希望の炎が同居しているように感じられたのだ。
「あの人は……誰?」
肌にまとわりつく空気が一瞬ひんやりと変わったような気がして、艶のステップがわずかに乱れそうになる。だが、彼女は心に巣くう迷いや不安を振りほどき、最後まで踊りきった。
同時に、男の心は踊りに魅入られていくかのように、しかしどこかで踏みとどまっているかのような――微妙な揺らぎを感じさせた。

観客席から大きな歓声が上がる。その一瞬、男はぎゅっと胸が締めつけられるような感覚に襲われた。
周囲を見渡せば、艶をはじめとするダンサーたちは情熱を燃やし、劇場スタッフも観客を楽しませようと懸命に動いている。観客たちはショーを心から楽しんでいるように見える。
「あんなふうに頑張っている人たちを、俺はただ見ているだけでいいのか……?」

ステージのきらびやかな光がまぶしさを増すほど、男の心は暗い影を深めていく。みんなが輝き、ひたむきに前へ進んでいるように感じるのに、自分はただ座って眺めるだけ――その事実が焦燥感を高めるのだ。
魂を揺さぶるような音楽が最高潮に達し、ダンサーたちが一斉にフィナーレへと向かう。艶は空気を切り裂くように大きく腕を広げ、紅蓮の炎を宿したかのような気迫を全身から放っている。
男は思わずその姿に目を奪われ、胸がざわつく。

フィナーレの歓声で劇場は熱気に包まれ、笑顔と興奮が渦を巻く。
公演後、メンバーと軽い挨拶を交わして舞台袖を離れた艶は、SNSに流れる世界の荒廃したニュースを見てまた思い悩む。
ふと、先ほど客席にいた男の瞳がよみがえり、心がざわめく。

「あの眼差し……私の踊りを見て、何を考えていたんだろう?」

不意に一瞬だけ視線が合ったような気がして、その光景が胸を焼くような感覚をもたらす。まるで、その“一つの炎”を思い出させるような、懐かしくも切ない視線。
もしかしたら、彼との出会いは、艶にとって新たな問いと同時に、一縷の希望を胸に灯すきっかけになるのかもしれない。
一方、男の意識は、未だステージに残る熱を噛み締めるようにざわついていた。
視線がすれ違いの糸を引き寄せるように、男はもう一度、空になったステージを見上げる。その瞬間、艶が情熱的なターンを決めて放った光の軌跡が脳裏に蘇り、胸をじんわりと熱くする。

「なんだろう……この感じは……」
心の底で、何かが動きはじめている。
それは罪悪感と焦燥感に揺れる男の心のなかで、かすかに明滅する希望の灯かもしれない。
「俺も……何かを始めるべきなのか?」

そう思いながらも、すぐには答えを出せないまま、男は劇場を後にすることができずにいた。



奇妙な気配と扉
フィナーレを終えて劇場を後にする観客たちのざわめきが、廊下にこだまする。
艶は公演後の余韻に浸る間もなく、胸のざわめきを抑えきれないまま舞台袖の奥へと足を運んでいた。
先ほどの公演で見た“あの男”の眼差しが、頭から離れない。まるで何かを訴えるようでもあり、けれど自分自身を見失っているかのようにも思えた。
「……あの眼差し、いったい何だったんだろう?」
そう問いかけても答えはなく、ただ胸の奥にはほんのかすかな痛みと希望の火が同時に揺れている。
だが、思考に沈んでいたそのとき、舞台裏の暗がりにふと“奇妙な気配”を感じた。
普段は聞こえないはずの微かな振動音が、壁の奥から伝わってくるように思える。誰かがいるわけでもないのに、肌に纏わりつく空気がざわりと震えたのだ。
「……気のせい……? でも、何だろう、この感じ……」
不安と好奇心がないまぜになったまま、艶は振り返りもせず、足を動かしていく。控室に戻るつもりだったのに、なぜか気づけば廊下の突き当たりへと歩を進めていた。人が立ち入らない暗幕の先から、かすかに淡い光が漏れている。
「こんな場所に、扉なんてあったかしら……?」
そこには、今まで目にしたことのない古びた木製の扉が、まるで闇に溶け込むようにして佇んでいた。優美な装飾が施されてはいるが、どこか不穏な気配を纏っていて、まるでこの世のものではないかのような雰囲気を醸し出している。
「どうして今まで気づかなかったんだろう……?」
まるで呼ばれるように手を伸ばすと、扉はかすかな震動とともに静かに開いていく。
奥からは淡い光が漏れ、微かな風が頬を撫でた。
艶の心臓が高鳴る。
「これは……夢? それとも……」
いつのまにか劇場の喧騒が遠のき、艶の鼓動と扉の向こうの不思議な空気だけが、そこに存在していた。そして、“奇妙な気配”は確かにそこにあったのだ──次の瞬間、艶は一歩踏み出し、見たことのない光景へ足を踏み入れようとしていた。
扉に手を触れた次の瞬間、艶の視界がわずかに揺らぎ……
扉からこぼれるかすかな光が、幽玄な世界へと彼女をいざなった。恐る恐る扉を開くと、そこには信じがたい光景が広がっていた。月と星が入り混じるような夜空の下、“火の鳥の祠”が神々しくそびえ立っていたのである。祠の中央には厳かに祭られた謎の古文書が鎮座しており、その文字が仄暗く光を放っている。
艶は胸の高鳴りを抑えられないまま古文書に目を落とす。すると、その表面に浮かんだ文字がまるで艶の心に語りかけるように流れていく。
「ここに来た者よ。異世界の扉を開く鍵を探せ。
 この劇場の未来を繋ぐ鍵は、羅針盤と共に在り――」
祠の傍らに宙吊りのように浮かぶ古びた羅針盤が現れた。訝しむ艶が恐る恐る手を伸ばすと、眩い光があたりを染める。
そのとき、まばゆい光があたりを染め、視界を奪った。
気がつくと、艶は再び舞台裏の闇に立ち尽くしていた。
手のひらには、確かに羅針盤が握られている。
「一体、何が起こったの……?」

戸惑いと興奮が入り混じるまま、艶はその場に立ち尽くす。さっきまでいたあの神秘的な世界と、劇場を行き来する扉――そして古文書の言葉が示した“火の鳥”や“劇場の未来”。
「もしこれが、本当に劇場を救う手がかりになるのなら……」
羅針盤を握りしめ、艶は決意を固めるように深く息をつく。あの男の瞳に映った悲しみと希望。それらを無視することはもうできない。
「小さな力だとしても、信じることが本当に世界を変えるかもしれない――」
「火の鳥の祠が示す謎を解き明かすために……古文書が、きっと鍵になるはず」
その夜、艶は劇場の仲間たちに声をかけ“鍵”を探し出す旅こそ、いまこの劇場を救う光になるかもしれないと信じ、夜空を見上げる艶の瞳に、一瞬だけ火の鳥の幻影が次なる冒険を予感させていた。
こうして、艶は劇場の未来を繋ぐ鍵を探すため、羅針盤を道標に新たな一歩を踏み出そうとしていた。

第一幕 終
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